こんにちは。たなあかあきらです。
年は取りたくないものですね。体は落ちていきますが、若いころの無謀なほどの前向きな気持ちはキープし続けたいと思います。
「ああ、僕も年を取ったのかあな」
あきらは、止まらぬ咳に身をかがめながら、感じていた。
「年は取りたくないもんだ。何もやる気が起きないよ」
あきらは、このところ咳き込むことが多くなった。喘息が発症してしまい、会社に行ったりブログを書いたり普段の最低限の暮らしはできているけれど、2週間ほど咳が続き気がめいっていた。
咳が出るので、出歩くのはやめておこう。今週は水泳もやめて、パブにビールを飲みに行くのもやめよう。読書会に参加するのもやめ、本屋に行くのもやめよう。天気がいいけど、外に出るのもやめようかな。やめよう、やめようだ。ああ、気がめいってくるな。でも、仕方がない、咳が出るんだから、大人していよう。
気がめいらずに、ぱっと直るような、特効薬はないかなあ?
昔、冗談で言っていたような。
あきらは30歳代の頃を思い出していた。その当時は、無謀だったかもしれないが、やりたいと思っていたことは、どんな状況でも前向きにチャレンジしていたかもしれない。
咳が出て喘息気味な状態が続いても、妙な特効薬のうんちくを述べて、マラソンを続ける理由をこじつけていた。毎日トレーニングをしているのに、咳なんかで中断されたくなかったのだ。
「咳や喘息なんか、唾でもつけておけばそのうち治るさ。血流をよくして新陳代謝を高めてやれば、少々の体調不良は簡単に吹っ飛ぶよ。それには、マラソンが最適さ。走って血液を高速で流して体を温め、汗をかいて代謝を高める。これが、特効薬だよ。迷信かも知れないけど、きっと効くぞ」
若いあきらは、ゴホゴホ咳をしながら、ランニングマシーンの回転スピードをマックスにして、走っていた。
端から見ていると、とち狂った阿呆にしか見えないかもしれないが、ゲホゲホ咳き込みながらも、毎日走りとおした。
けれども走り続けていると、面白いことに少しづつ咳が軽くなってくるのだ。毎日激走しながらも、1~2週間程度で咳はケロリと治ってしまったのだ。
当時は若くて体力があったから治ったのかもしれない。病は気からというように、まったく気にすることなく前向きに挑んでいたので、治ったのかもしれない。それとも、血行と代謝を高めたことが、本当に特効薬になったのかもしれない。
あの頃は、大人げなかったなあ。無謀としか言いようがなかったけれど、意味わからない特効薬は効いたのかなあ。あの時は、若かったからな。今じゃ無理だろう。大人しくしていよう。
だけど、気がめいるなア。なんで、なかなか治らないんだろう。この咳は!
あきらは、ちょっとイラついていた。
10年前は大人げない、阿呆なことをしても治ってしまったけど、大人って何だろうか。年を取っていくことって、どういうことだろうか?
年を取るということは、楽に楽しく生きるということ、ではないかと思う。それが年の功というものだろう。自分の身の回りのことも、世の中の動きも、物事を俯瞰的に見れるように、少々のことで動じない寛容な心を持つことであろう。だから、楽しいことのポイントを見つけ、動じることなく楽しんでいけるのだろう。
年を取るということは、あきらめることも含まれるのだろうか。あきらは、ふと思った。これは、年を取ることのネガティブな面かも知れない。俯瞰的に見れるはずなのに、動くことが面倒に感じてしまい、行動を制限して閉じこもったりしてしまう。
今の自分が大人しくしていることと、本当の大人らしさとは全く違うじゃないか。咳が続くことを言い訳にして動かなくなってしまい、ネガティブな自分を作っているだけではないか。それでどんどん気持ちも後ろ向きになって、こもってしまっている。
これじゃあ、咳も喘息もよくならない訳だ。
確かに10年経って、体は年を食ったかもしれない。だけど、気持ちの面では絶対年は取りたくない。むしろ、どんどん積極的になっていきたい。
今の自分の年齢で、三十代の頃の迷信じみた特効薬は効くかどうかは分からない。だけど、もう一度試してみる価値は、十分すぎるほどあるのではないか。
あきらは10年前の阿呆な自分に戻ってみようと思った。年は取ったが、本来の自分であるためには、若いころの無謀な気持ちは忘れちゃいけないんじゃないか。
あきらは、水泳の準備をして温水プールに向かっていった。だけど、喘息にとっては空気が良くない、パブに行くのはやめておこう。回復してからのお楽しみにとっておこう、と思った。
最後まで読んでくださり、ありがとうございました。